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健全な社会とは何か [幸福論]

俺の経験によれば、中南米などのラテン人は、
自分に心地よい状態を知っており、社会はその追求を推奨する。
彼らは、ピラミッドを登ることより、自分の心を満たすことを重視する。
必要以上に自分を追い込まないので、社会の生産性は高くない。
でも、屈託のない笑顔で、その刹那を楽しむことができる。
そして、社会では個人が大切にされる。

一方、アングロサクソン(特に米国人)や日本人は、
個人的な幸福感を見失って、社会的勝者を目指す。
敗者は強者の食い物というのがアングロサクソンのコモンセンス。
一方、日本人は恥に縛られて、ピラミッドを降りることが出来ない。
個人が心の平安を犠牲にして、勝ち組を目指す社会では、
GNPなどの生産性は上がる。
その結果として、鬱病の患者が量産される。
こういう社会では、個人ではなく、個人の社会的成功が賞賛される。

豊かさは確かに、素晴らしい。でもそれは心の平安があってこそだ。
心が病んでいれば、金銭的なアドバンテージは少しも幸福に結びつかない。
金を得たところで、自分をよりピラミッドの上に引き上げるために、
ブランド品や、高級車などのステータス・アイテムに脅迫的に浪費する。
そして、そういった物を追求し出すとあり地獄のように、
どんどん引きずり込まれていく。
奴隷根性が染みついている人間がいくら金を手にしたところで、
結局は奴隷なのだ。
金ですら、自分を縛るためにしか使えない。

健全な社会とは、個人的な幸福追求が許容される社会。
そういう社会では、人々は自分にとって何が心地よいかを知っており、
社会的成功のために自分を犠牲にしない。
自分が楽しむために必要な分だけ働く。
社会的な生産力は低かったとしても、鬱病は少ない。

個人の幸福感という犠牲払ってまで、
社会の生産性をあげることにどんな意味があるだろうか?


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客観的幸福観の国、日本 [幸福論]

日本人の多くは、自分自信の幸福を追求しているつもりで、
実際には客観的な幸福を脇目もふらずに追いかけている。
「高学歴→一流企業→終身雇用」という昔ながらの幸福像以外にも、
様々な幸福像が存在するが、それらは勝ち組ピラミッドの変種である場合が多い。

たとえば、ヤンキーは改造車のパーツにこだわる。
パーツには「格」があり、わかる人が見ればわかるらしい。
そこには、一般人にはわからないヤンキーの世界での勝ち組ピラミッドがある。
社会からドロップアウトした不良だって、不良としての勝ち組を目指しているわけで、
その本質は彼らの軽蔑するガリ勉君と大差はない。
ただ、登っているピラミッドの種類が違うというだけの話だ。
ブランド狂いも同じことだ。
様々なブランドピラミッドがあり、金がある限り、上を目指して登り続ける。
恋愛すらも客観的幸福感に支配されており、明確なピラミッド構造が認められる。
恋愛命の女性は、パートナーの対外的なランクに徹底的にこだわる。
みんながうらやむようなパートナーでなくてはならない。
しかし、現実問題として、そんなパートナーは手が届かない。
ランクが低いパートナーでは自分が負け組になるので、
ランク付けが難しい自称アーティストや外国人が重宝される。
勝ち組になれなくても負け組の烙印は避けようという涙ぐましい努力。

人間は、生まれついたときから家庭という社会の中にいるわけで、
我々の価値観は社会の中ではぐくまれる。
だから、自分の先天的なものと後天的なものを区別をするのは非常に難しい。
教育という名の去勢が横行している日本では、
主観的な幸福追求を貫くのはとても難しいのだ。

自分自身の幸福を追求するためには、
自分がいかに客観的な幸福観に支配されているかを理解する必要がある。


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健全な人間とは何か [幸福論]

俺は、ある意味では健全だけれども、
別の視点から見ると救いようもなく非健全だ。
それは、健全さというものをどの視点から定義するか次第だ。

客観的に健全な人間とは、
その社会の規範に疑問を感じずに生きられる人間。
社会によって提示された人生像を無批判に追求できる人間。
戦前であればお国に忠誠を誓い、
団塊であれば共産思想にかぶれて、現状に否定的なスタンスを取り、
そのくせ、終身雇用の家庭的企業にしがみつく。
女性であれば、家庭的なお嫁さんになることを当然として受け入れる。
それが自分にとってどんな価値があるかなど考えずに、
みんなが欲しがる物を欲しがり、それ以外に興味を持たない。
勝ち組ピラミッドの奴隷こそが、現在社会において客観的に健全な人間だろう。

主観的に健全な人間とは、
自分の内なる欲求に疑問を感じずに生きられる人間。
それが社会的に評価されているかどうかなど意に介せず、
自分の個人的な幸福感を肯定できる人間。
周りに流されずに、自分の本能に忠実に生きる野蛮人。
みんなが欲しがるからという理由で、何かをありがたがらない。

俺は、自分が何を望んでいるかを知っている。
それが社会的な価値観とずれていることも知っているが、
そんなことお構いなしで自分の個人的な欲求を追求してきた。
俺は主観的にはとても健全なのだが、客観的には非健全だ。
客観的に健全な人間からは、俺は非常識に見えるようで、
迷惑をかけているわけでもないのに身勝手とか非難されることもある。
「別に悪いことしてないだろ」と言うと、「和を乱す」と抗議される。
個人の幸福追求を犠牲にして達成される和など無い方が良い。


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苦しいときは、降りてみよう [幸福論]

勝ち組というのもいろいろな種類がある。
男がこだわるのは、会社の肩書き、学歴、収入など社会的な地位。
女がこだわるのは、恋愛における勝ち組(すてきなパートナーとのすてきな恋愛)
これらの勝ち組の価値を全否定したいわけではない。
わざわざ収入を下げる必要はないし、容姿を悪くする必要もない。
勝ち組であることは素晴らしい。
ただ、そのためにどこまで犠牲を払うかは冷静に決めるべきだろう。
そして、その線引きは人によって千差万別だ。

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勝ち組という不幸、負け組という不幸 [幸福論]

すべての社会には、幸せな人生のイメージがある。
そして、人はそのイメージに縛られている。
日本社会にも理想的な人生像が存在し、
そういった人生を送る人を「勝ち組」と呼んでいる。
勝ち組になろうと、皆がもがいている。

勝ち組と負け組という分類は、精神の貧困を表している。
負け組は、勝ち組になれば自分は幸せになれると思う。
しかし、勝ち組になるための手段がわからない。
だから、不幸を自覚しつつ、満たされない状態にとどまる。

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俺の幸福論 [幸福論]

人生によって何を背負うべきかは、人によって違う。
さらに、同じ人でも、その時々によって変わりうる。
では、背負うものをどう選択するか?
その基準は、自分の心(直感・感覚・本能)意外にあり得ない。
「それは背負う価値があるのか?」と自分の心に問いかける。それが、自問自答だ。

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客観的に旨いラーメンなど無い [幸福論]

俺はネットで、「素人・ラーメン食べ歩きブログ」を書いている。
究極のラーメンを探そうというような高尚なものではなく、
「今日は、ここのラーメン屋で塩つけ麺を食べたら旨かった」といった日記のレベル。
それに対して読者からいろんな反応がある。
「私もここの塩つけ麺が好きです」とか、
「良い店を紹介してくれてありがとう」とか、
「この店なら、ネギチャーシューがお勧めですよ」とか、いろんなコメントがつく。
もちろん、好意的なコメントばかりではなく、
「お前のお薦めは、クソまずかった」という意見もある。
味の好みって、人それぞれだから、そういうコメントも大歓迎。
どこがダメかとか、同じ系統ではどこがお薦めとかも、書いてくれるとなお嬉しい。
否定的なコメントばかりつく場合もあるが、それはそれで貴重な情報。
そういった一般ウケしない店には、独りの時に行くことにしている。

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正しいとは何か? [幸福論]

正しい状態とは、人間として満たされた状態。
それは、背負うべき荷物を背負い、
背負うべきでない荷物は捨てた状態。
身軽であれば良いとは限らないし、
所有物が多ければ良いとも限らない。
必要な物は全てあり、不要な物は全くないのが理想。

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